脱力と悟りの関係

筋肉が緊張したまま(力が入ったまま)なのは、何かの想ひ(思考)に浸ってゐるからだ。想ひが筋肉の緊張をもたらす。
ストレスも想ひからくる。

想ひに浸ることをやめると(想ひに対する自己同一化をやめると)、覚醒(一瞥)が起こる。
完全に想ひに浸ることをやめ、自我が抜け落ちると悟りが現れる。

悟ってゐる人は、想ひに浸っていないから筋肉の緊張がない。脱力状態だ。
悟ってゐるかゐないかを見分ける方法の一つは、顔や身体に緊張感があるかだうかだ。
顔がだらっとしてゐる人は白痴か悟った人(覚者)かだ(笑)。
緊張のある顔の人は、悟ってゐない。

黒住宗忠は、白痴のやうに見られるやうになって喜んだといふ。
それだけ本物になったといふことなのだらう。

良寛もさうだ。

一休さんではないが、一休み、一休み。

一発屋と継続的なヒットを出す人との違ひは?

歌にしろ何にしろ一発屋と継続的なヒットを出す人との違ひは何だらう?
一発屋は1回しかインスピレーションが降りて来なかった。
継続してインスピレーションをキャッチできない。
継続してキャッチする方法・感覚を知らないのだ。
何かのきっかけで1回だけ幸運にも降りてきた。キャッチできた。

それでは何回もヒットを出せる人はだうしてゐるのだらう?
何が違ふのか?
わかればみんなヒットを出してゐる(笑)。
さういふ人は天才といはれる人なのだらうが。
汲めどもつきないインスピレーションの泉につながってゐる。
どんどん溢れかえってゐるのかもしれない。

何かに焦点を当ててゐる?
聴くことに。
聴こえない音を聴くことによって聴こえてくるもの。
それが創造の泉か。
非二元の超越者のしじまの空間。

氣が狂ふ主体は誰か?

氣が狂ふとき、誰が狂ってゐるのか?
氣が狂ひさうと思ふとき、誰がさう思ふのか。

苦悩するとき、苦悩してゐる主体は誰か。
想念だけで、思ひの世界だけで苦悩してゐる。
それが身体に負荷(ストレス)をかけ、筋肉に抑圧したエネルギーが溜まる。

想念の主がいなくなれば、苦悩することも気が狂ふこともない。
ストレスもなく、抑圧したエネルギーが筋肉に溜まることもない。
身体は、リラックス状態だ。

文筆の星

つづけざまに書く。
ブログ的には一日一つがいいらしいが、氣にしない。

先日、算命学(四柱推命のうちの年月日で占うもの)を勉強してゐる人から見てもらったら、文筆の星があると言はれた。それも天中殺が入ってゐるので、変な文筆で成功すると(笑)。

スタピで読むとき「発行人愚言録」から先に読む人がゐるらしい。(何人からか聞いた。笑)

変な文筆でやるしかないか(笑)。