いつかこの物質の世界とも別れる

更新がちょっと間が空いてしまった。

今月はかなりあわただしい。
5月発行の本をやうやく3冊印刷所の入稿できた。
何の本かは、そのうちわかる(笑)。楽しみに。

今日の書き込みは、「いつかこの物質の世界とも別れる」
死んだあとの存在・存続については一般に「ある」とされてゐるがまだ確証されてゐない。
あるなしに関わらず、今触れてゐる物質世界ともいつか別れないといけないときが、「必ず」来る。

ドアの取っ手の物質性も、この世に生きてゐるから触れられる。感じられる。動かせる。
死んでしまへば触れられないし、感じられないし、動かせない。

この世のすべてのものが、さうだ。

さういふ面で、この世の物質は貴重だ。

あぁ。

心の静けさ

心の静けさ、安らぎは、どこに属するのだらうか?
覚醒は意識に属するが、心の静けさは、感情に属するやうに思ふ。
でも喜怒哀楽の感情ではなく、グルジェフの言ふやうな高次感情センターに属してゐるやうに思ふ。

古代ギリシャ哲学では、ストア派もエピクロス派も幸福は「心の静けさ」(アパテイア、アタラクシア)にあるとした。

「満たされない思ひ」は、感情・ハートに属するけれど、「心の静けさ」に至ると「満たされない思ひ」は高次に変換され、高次感情センター・ハートが活性化され機能するやうになるやうに思ふ。

それが覚醒の効能か。「覚醒」→「心の静けさ・やすらぎ」

わんさか出てきてゐる

さっき思ってゐたタイトルと違ふが、まあいいか(笑)。

今(20年前くらい前から?)、欧米ではわんさか覚醒した人が出てきてゐる。
さういふ本もたくさん出てゐる。

最近では、日本でも少し?(たくさん?)、さういふ人が出始めてゐる。
日本での書籍は、弊社と他の出版社さんで若干出してゐるが、欧米ほど出てゐない。
情報量がまだ少ない。

もうちょっと、溢れるほど出して、一般的にもなじみのあるものにしたい。
これでもか、くらい(笑)。
売れたらの話だけれど。
読者は、どれだけついてきてくれるかな。

今、世の中が、覚醒する方向に向かってゐる。
そのうち、全員、覚醒する(悟る)のかな。たぶん。

神の安らぎ

『奇跡のコース 第一巻』が、しばらく品切れ中だったが、ようやく増刷できた。
amazonにももうじき反映されると思ふ。また全国の大型書店にも並ぶと思ふ。

『奇跡のコース』は、序文でこのコースは次ぎのやうに端的に要約できると言ふ。

実在するものは、存在を脅かされることはない。
非実在なるものは、存在しない。
ここに、神の安らぎがある。

なぜ、そこに神の安らぎがあるのか。
前の2行は、存在するものは存在し、存在しないものは存在しない、と言ってゐるだけのやうだ。
だうして、そこに神の安らぎがあるのか。

この世は、幻想の世界であり実在しない。非実在なるもの。
この世を超えたもの(神)のみが、実在する。神は絶対で滅びない。不滅。
神は滅びないから安らぐのかもしれないが、人間は、俺は、滅びの存在かもしれず、安らぎはない。
神だけが安らげばいい。
そもそも「あなたも私もゐない」(笑)。
神だけがゐて、神(だけ)が安らいでゐる。
それが『奇跡のコース』の教えか。

『奇跡のコース』は、純粋な非二元(ノンデュアリティ)の教えだと、ゲイリー・レナードを通してアセンデッド・マスターは説いてゐた。

イエスは、安らいでゐるのか。

覚醒と安らぎは異なる。
覚醒は、意識の領域であり、安らぎは、心(ハート)の領域だ。

『奇跡のコース』では、「神のマインド」を説くがハートはだうなのか。

俺の心は安らいでゐない。

心(ハート)から愛が噴出して、オープンハートだぜ、とはまだ行ってゐない。

超越次元と死

エックハルト・トールは、主観と客観を超えた「超越次元」のことを『マインドとの同一化から目覚め、プレゼンスに生きる』で語ってゐる。

超越次元は、生死を超えた次元だ。死を超えてゐる。

超越次元を意識すると、死をも意識するやうになる。

死が一寸先に見える。

死と共存する生が始まる。

そして、どこかで終はる。

意識と心

意識がいくら覚醒(一瞥、トランス)してゐても、心が満たされてゐるかだうかは関係ない。
覚醒してゐても、心は満たされないことがあると思ふ。
覚醒(悟り)は意識の領域だが、心は意識の領域ではない。
心は満たされないとき、物質的に満たさうとする。

俺はいつも心が満たされない。物質的に満たさうとしてゐる(苦)。

法華経

次のスタピの特集で、宮澤賢治の特集をしやうと思って、いろいろ調べてゐると、賢治は法華経信者だったらしい。

それで法華経とはどんなお経なのかをあらためて調べてみたら、やはり(笑)、
無内容で、効能書きばかり書いてあるお経だった。

『法華経』というお経の中で、法華経を信じると効能、利益があると説いてゐるけれど、肝心のその法華経とは何かが書かれてゐない(大笑)。
荒唐無稽なことが書かれ、ブッダの弟子たちがおとしめられ替わりに(存在のよくわからない)菩薩や佛が出てきて、変な人たちを救っていく(笑)。
変な塔が出てきたり。
よくこんなのを、支那や日本の中世で信じられ尊重されてきたものだなぁと思ふ。
日本の天台宗は、法華経を根本に置き、鎌倉新佛教は、天台から発生し、日蓮宗はもろだが、禅の道元でさへ法華経を引用しながら著作してゐた。
江戸時代の禅僧の白隠も最初は法華経を軽んじてゐたが、中年になって感動したりしてゐる。
明治以降も、日蓮宗系の新興の団体や新興宗教がわんさか出てきた。
内容がないのに、よくまあ出てくるものだと関心する。

よほど扇情的なのだらう。

僕は佛教徒たりえない。

大乗非佛説はしかりだが、密教も超能力系だし、南伝佛教(上座部佛教)もなにか覚醒とは違ふやうだし。
覚醒(悟り)の本家的な佛教が、こんなのではだうしやうもないな。
ヒンズーのアドヴァイタや、イスラム教のスーフィ、キリスト教神秘主義のほうが、まだ純粋なところがあるか。佛教では禅の一部がちょっとだけ残ってゐるのか

純粋な覚醒系がいい。

葬式佛教も、もっとすっきりして今の時代にあったものになったらいい。
覚醒とは別に、霊相手の供養も必要だから。

神のやうな人

前にも書いたかだうか憶えてゐないけれど、また?書いてみる。

何年か前に銀座を歩いてゐたときに、通りを前方から歩いて来て通り過ぎていった女性に神を感じたことがある。
普通のOLだったか、さうでなかったか、3、40代の女性だったが、表情や振る舞いに何か超然とした神々しいものを感じた。オーラがすごいとか、さういふものではなく、ごく自然な動作なのに、神、と呼べるやうな何かを出してゐた。
いまだに、記憶に残ってゐるといふのは・・・
酔っ払いで、記憶力もない俺ではあるが。
よほど、何かに(静かに)打たれるものがあったのだと思ふ。

イエスも、もし現代に生きてゐたのなら、同じやうに感じるのだらうか。
通りすがりでも、神を感じるのだらうか。

今も世界中のいたるところで、神のやうな人がひそかに歩いてゐるのだらうか。

3月の新刊 その3

今月の新刊3冊目は、
インナーメッセンジャー
著者は、湘南やすらぎの家の川上貢一(コウ)さん。

コウさんは、毎日メルマガで「インナーメッセンジャー」を発行していますが、
そのメッセージから選んだものと、コウさんの自伝的エッセイが合わさった本です。

メッセージは、いろいろな気づきや勇気をもらえます。
エッセイは、コウさんの生きてきた過程に感銘します。

そこには澄みわたった何かを感じます。

奇跡のコース』(奇跡の道)を長年学ばれてきた中で、
ご自身、聖霊からの声をメッセージとして受け取り、
勉強会で参加者とシェアすることにより、
より純粋なものへと昇華されていったのだと思います。

「罪がない」とはだういふものかが、わかってきます。