「それ」ではない

「それ」と対象化して認識した瞬間に、自己と「それ」との二極(二元)が生じる。
「これ」「ここ」と言っても同じ。対象化してゐる。
対象化しない「ここ」。絶対的な「ここ」。どこもかしこも「ここ」。
主観だけしかない認識。すべてが、個人でない自己。世界と自己との同一性。

先日、また別の悟った方にお会ひした。

その方は、「パンパン」といふ音に真実があって、その事実を自覚するのが悟りだと言はれてゐた。
その音を対象として認識するのではない、とのことだった。

対象化しない知といふのはだういふことか。

それを「即」と表現されてゐた。

覚醒しても、覚的世界を対象として認識してしまえば、まだ対象として見てゐる自己が残ってゐることになる。
プレゼンスを認識しても、プレゼンスを対象化しては、まだ自己が残る。
超越者を認識しても、認識してゐる自己がまだある。

対象化しない知。

認識がやむとき、対象もないし自己もない。知もない。

「パン」と氣づいたら「パン」だった・・・
自己もなく。

この方は、悟りを維持することも、戻ることも、深まることもない。大悟も小悟もないと言はれてゐた。

遠い日

今日参加した音楽イベントで、「はるかな尾瀬、遠い日を」の曲が流れていた。

遠い日。

遠い日は、月日はかなり経ってゐるが、ありありとリアルに思いだされる記憶。
そこに当時の人々がリアルに生きてゐる。自分もその当事者で。
しかし、リアルではあるが、もう戻っていくことできず、取り返しのつかない映像。
もうどうすることもできない出来事。みんな生きていたんだ。
もう帰ることができない。

ありがたうございます

「ありがたうございます」は感謝する対象があって成り立つ。
感謝する人と感謝される人(存在)との関係性。
それは二元の世界。
それを包摂するものとして全体性(一体性)(非二元)のスペースがある。
この二元の世界では感謝だが、一体性(ワンネス)の世界ではそれを超えてゐる。
同時存在。
人々に感謝し、先祖に感謝(先祖供養)し、神々に感謝するこの世界と、それを超越する世界と。

ヤン・ケルスショットさん

レナード・ジェイコブソンさんと違って、ヤン・ケルスショットさんはよくしゃべり沈黙の時間もあまりない。
レナード・ジェイコブソンさんは、沈黙のプレゼンス力によって会場を静かな空間にするが、ヤン・ケルスショットさんは沈黙によって会場を静かにはしない。
しかし、ワークショップが終わったあとのプレゼンスの余韻は双方匹敵するものがある。
会場でプレゼンスを表現していないように見えて(言葉で「スペース」のことを常に意識して語ってゐたけれど)、会場から去ったあとにプレゼンス(スペース)が現れる。
不思議。

ニシキトベの知名度をアップさせたい!

先月、『ニシキトベの復活』を出版した。

まだ、ニシキトベという存在はそんなに知られてゐない。
もっとみんなに知ってもらひたい。

ナグサトベも近くにゐた和歌山・熊野の女酋長で、ニシキトベも熊野の女酋長だ。
どちらも神武天皇の東征で殺された(?)。
土着の人たちの長。奈良のクモ族もさう。

時代は古墳時代の前くらい。弥生なのか縄文なのか。
著者の佐藤シューちひろさんは、神武即位の西暦紀元前660年説をとって縄文の女性酋長と見ている。考古学的には、神武即位は紀元後300年くらい(古墳時代のはじまり)。そうすると弥生の女性酋長となる。

神武ななぜ東征して、土着の人たちを殺して、王位についたのか。
それから今まで王位(天皇)は続いてゐるが。

ニシキトベを復活させることは、元の日本人の魂を復活させることだ。

『ウエティコ 神の目を見よ』にも通じるものがある。

著者の佐藤シューちひろさんは、熊野でニシキトベの彫塑を作っていく過程で、ニシキトベと対話し、ニシキトベの歌を聴き、みずからの内にある本来のものを解放していった。

ニシキトベをみんなに知ってもらいたい!

照明体験

今日も酔ってゐるので、何を書いたか憶えてゐないと思ふが書いてみる。

イスラム教神秘派のスーフィでは、神秘体験を「照明体験」(イルミネーションの体験)と読んでゐる。
光に照らされるやうな体験。臨在(プレゼンス)を感じてゐるときの体験。
臨在とは、神の臨在。
超越者・普遍的な意識がまさにありありと感じられ、照明を浴びてゐるやうな感覚。
照らすそちらが本当のもので照らされてゐるこちらが・・・うまく表現できない。

だいぶ前に山川紘矢さんが何かの本に書かれてゐたな・・・。ご自身の照明体験を。

スーフィたちは、見えないが感知できる照明的存在との恋・愛に生きた。

病膏肓に入る

書かうと思って投稿一覧を見たら、既に昨日同じ内容のものを書き込みしてゐた。
すっかり書いたことを忘れてしまってゐる。

相当飲んでゐて書いたので、記憶がないのだらう。

そんなのばっかりかもしれない。

病膏肓に入ってゐる(苦)。